PECHEDENFERのブログ

Le rayon d'action illimité. D'une véritable ruche bourdonnante.

ちょっと言葉について

ブログを続けるにあたり、恐れることは言語の誤用です。一番多いのは編集ミス。消去、上書きしたところ、活用語尾の文字が残っている、足りないが典型的な形です。続いて誤変換。こういうものは、再読すれば大体見つかります。

 はるかに重大な問題なのにもかかわらず、判定が微妙なのが語法。非典型的な言葉の使い方は、正しいとも間違っているとも断定困難です。これに関しては、ANAの言語が大まかな目安になると思います。彼ら以上に外していると感じられる場合、前衛的過ぎて誤りと見られる恐れがあります。

 

こうなると、他人の書いた物も気になります。現代の言葉に関して気になっていることをまとめてみました。ただしまず大きな「誤用」の潮流を取り上げないといけません。今日はその点に限定します。ANAも以下に書く内容のレベルで議論を起すような言葉遣いはしません。たぶん。

 

形容詞終止形+「です」

「気分がよいです」。「目は青いです」。「悲しいです」。これらに違和感を覚える人は多いと思います。結論から言うと、これらは国が御墨付きを与えた正しい日本語です。昭和27年国語審議会で正しい日本語にされました。

 それ以前の考え方では、助動詞「です」を形容詞終止形につけることは形容動詞との混同であり、「よいだ」、「青いだ」、「悲しいだ」が不可であることと同様の誤用でした。一方で敬体で表現する時は、「よろしゅうございます」、「青うございます」、「悲しゅうございます」という言う必要があります。この言い回しは66年前でも丁寧すぎて、これでは不便だろうということになったようです。

 個人的には相当違和感を覚えます。個人の印象ですから、反発を覚えてもらっても困りますが、文章で多用する人は良い教育を受けていない、あるいはあまり勉強が得意ではなかったように見えます。

 一方、自分でも「楽しいでしょうね」などと、「です」が未然形に活用、助動詞がついた形ではあまり違和感がありません。特に口語ではそうです。要は低レベルと感じていることを自分も行う状態になっています。「楽しゅうございましょうね」に違和感はありませんが、自分ではまず使いません。言葉はなかなか割り切れないと感じます。

 

常体と敬体の混合

小学校で強く言われたと思いますが、原則としてこれは不可。しかし多く見かけます。こういう人たちは、社会生活ではいろいろなフォームに則った日本語を使い、破綻を免れているのでしょうが、経験のない場に出たら馬脚を現しそうです。

 敬体と常体の混合が可能になるのは、

・文、文章の引用

・言葉そのものを取り出す場合

などに限られます。散見されるのは、「です・ます」が連続する中、あちこちで形容詞終止形で文が止まっている文章。体言止めを用言止めに拡大した感覚なのでしょう。上の形容詞の語法ともおそらく関係します。これは物を書いて稿料を得る方にも良く見られます。

 言語は進化します。全ての変化は誤用として始まり、大勢が間違いだと感じなくなった時点で言語の一部となるはず。この進化の途中で、個人の言葉遣いに関する問題が起きます。誤用の多い文章は、古今東西を問わず無教養の証だからです。

 

新感覚の日本語と、無教養による誤用を分かつポイントは曖昧ですが、存在します。それは文章が持つ他の特徴。語彙が豊富で的確、多様な思考ができている文章で、常体と敬体が混合されていたら、ひどい日本語とは感じにくいはずです。一方、語彙に乏しく、単調な文章でこうした混合が行われていたら、多くの人はひどい文章だと判断します。ある誤用が正用となるためには、その言語の中で貧弱な文章との正の相関が消えることが必要条件です。

 これは他の諸要素が良ければ、誤用は目立たないことを意味します。自らも気をつけなければならない点です。

 

土地と言葉

語彙、語法、構成でその人の性別、出身、育ち、身分、政治的立場などが推察されます。自己紹介を偽ってもばれます。無理して自分以外の何者かを演じ通そうなんて努力は無駄。

 自分を良く見せようとする気持ちは、本能みたいなものです。偽るつもりはなくても、文章の節々にそういう傾向はどうしても出てきます。露骨な人は滑稽に、巧みな人は嫌味に聞こえます。こういう受容の傾向も人の本性ですから、書く立場では注意するポイントになっています。

 語彙の偏りの中でも、消しがたいのは方言。本人が標準日本語だと勘違いをしていても、見つかりにくい点に特徴があります。職業よりさらに偽ることが難しいのではないかと思います。文章の個性だと、前向きに開き直るしかありません。

 

土地が原因で言葉が偏向する傾向は、母語に限りません。先日来、立て続けに書いていますが、ドイツ語の場合は桁違いに強烈です。彼らが dialect (英語)と言う場合、それは日本語の方言とはかなり意味が異なります。

 

現地の状況に通じている hato さんがコメントで残して下さったとおり、ヘッセン人は Frankfurt が、バイエルン人は München がドイツの中心であるような感覚を無意識に持っているようです。

BA988:LHR-TXL Club Europe(その2) - バス代わりの飛行機

その帰結がきわめて重要。つまり外国人がドイツ語を覚える時、土地の言語感覚が知らず知らずの間に身に付き、Stigma のようになる事です。

 普通だと思っていることが他の土地で全然普通ではないのが、ドイツ語の日常。

・Berlinで上質なソーセージやサンドイッチが欲しくなっても、Metzgerei は一般的では有りません。外国人の会話では通じない可能性すらあります。

・Sonnabend の約束のために、日曜午後の予定を空けるのは無駄なことです。

など、外国人にも地雷がいっぱい。語彙やら考え方が偏向していることに気がつくのは、こういう例を通じてです。


大陸では人はやってきて住みつきます。ドイツでは「外国人」とは、文字通りの意味において相対的な概念です。

そういえば、Berlinの人は Präteritum を多用するので何だか賢く見えるのでした。

 

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現代の日本語ではここまで言語の地域性は強くないので、方言については比較的楽です。それが良いのか悪いのかは、ブログを書く立場では何とも言えません。