PECHEDENFERのブログ

Le rayon d'action illimité. D'une véritable ruche bourdonnante.

趣旨から外れるので無題

ブログの趣旨から外れますが、意外な事実を認識しました。大げさに言うと、世界はそういう風にできていると言うお話。

 

検索表示

自分のブログの見映えをチェックするのに、Google経由でアクセスして唖然としました。昨夜のことです。タイトルはともかく、紹介される内容の一部がマタイ伝を思い出させます。これではこのブログ、「今日の言葉」です。

 

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また真面目な信徒からは、使い方がけしからんと怒られるかもしれません

 

この文句をどこで使ったか、確認してみると2つ前の記事

世界5大おっかない空港 - バス代わりの飛行機

に入れた感想の一つでした。小フォントを使ったマイナー部分。見逃さず、トップで紹介するGoogleには呆れます。

 実はこの表現、ブログを書く時は意識せずに使いました。他人に堂々と示されて初めて、雰囲気から聖書を感じ取った始末。「ヤバい」と焦り、Mätthaus/Matthieu 5.45

"...denn er läßt seine Sonne aufgehen über die Bösen und über die Guten und läßt regnen über Gerechte und Ungerechte."

または

"...car il fait lever son soleil sur les méchants et sur les bons, et tomber la pluie sur les justes et sur les injustes."

であることを確認。「やれやれ、遂にやってしまいましたね」です。

 

空旅行に関するブログ。無宗教であるのが当然。やはりこれは変でしょう。

 

背景

Pechedenferは、無宗派あるいは無信仰です。しかし聖書は時々読みます。正確には参照します。何故かと言うと、世界で最も読まれている本に書かれたことは、表現の元にしやすいのです。著作権もありません。

 日本の古典では本歌取というテクニックがありますが、それと似ています。原典の持つ意味や雰囲気が加わり、表現に奥行きが出てきます。

 キリスト教徒が少ない日本では、聖書からの引用はあまり力を持ちません。しかし例えばフランス語を使う時、周囲より言語能力が劣るPechedenferのような人間でも強力な効果をもたらすことができます。彼らは精神を解放された合理的な人間を自認していますが、どっこい聖書の文句はよく通じます。感覚のレベルで通じるので、簡潔な表現に意図を乗せられます。要は、弱者が手にする武器なのでした。

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「聖書は弱者も手にできる武器」とか、「聖書は強者に向かう武器」という言い回しは、宗教的にイケています。弁解すればするほど怪しまれるパターン?

 

聖書のこういう利用は罪だとは思いませんが、意外と危険です。まずは知らず知らずのうちに、自分自身がカトリックにフォーマットされる恐れがあります。Pechedenferは時々カトリックだと勘違いされるのですが、たぶんこの辺の習慣が一役も二役も買っています。それから宗教性を排除したい場合でも、カトリックの世界を忍び込ませてしまうことがあります。意識せずとも聖書の言い回しが出て来るからです。今回のケースですね。日常に教えや考え方を忍び込ませること。これは布教の要。Pechedenferは、教化に協力していることになります。
 

Googleの世界

で、Googleに戻ります。この文句が現れるのは筆頭記事の頭でもなく、ブログの主題からも離れます。彼らが重要視する情報として拾われた理由は、どう考えても科学的ではありません。日本を除くG8はキリスト教文化圏にありますが、それでも聖書の記述に敏感に反応し過ぎです。しかし情報を選び出すルーティンにそういう性格を持たせていると考えると、少し違った面が見えてきます。価値と信仰が、情報選択に色濃く反映されているのです。Googleは、彼らにとって居心地が良い世界を隠然と構築していることになります。

 情報産業の寡占にまつわる危険性はいろいろ指摘されますが、密かにキリスト教化を進めているとは思いもよりませんでした。もっともPechedenferとしては、l'Épiphanie、l'Ascension、l'Assomptionなどが休日になるなら、文句はありません。laïqueと言っても、その程度です。