連休なので古刹に来てみました。場所を国内に移して2週連続となる山登り。ここは平和ですが、観光客だらけで静寂がありません。
先週の山はジャングルでしたが、古戦場につき心情は「夏草や...」。そして今週はさらに有名な「閑さや...」に縁深い場所。縁深い人物も山下奉文ではなく、松尾芭蕉その人。
元禄の文人に思いをはせ、その彷徨の足跡をたどるのも一興ですが、多くの人は単なるハイキングという風情です。
定住社会では徘徊癖のある人は記録に残りやすく、凡人は記録を元に想像を膨らませます。紀貫之、松尾芭蕉、山下清、車寅次郎、水戸光圀...少し考えるだけで、ぞろぞろ出てきます。ボケ老人と同じことをやっていても、来たというだけで、観光資源が産まれます。空飛ぶ社畜の皆さん、来期ステータスや生涯マイルのことばかり考えていないで、出張の度に一句残しましょう。
暦は秋分。蝉はいません。目にするのは蜻蛉、耳にするのは秋の虫です。芭蕉もこの風景を見たのだろうなんて、訪れる人は感慨にふけったりするのでしょう。
しかしですね、300年以上経て樹木はすっかり入れ替っています。さらに言うと、視界を遮るものは観光がビジネスになってから剪定された可能性が高いのです。
ロマンがない Pechedenfer は、こんな感じの光景の方が好きなのでした。
荒々しい自然を同化するような挑戦が感じられます。しかし一見穏やかで、意図は完全に隠されています。
この奥の院への道は大変だと聞いており、心構えをして入山料300円を支払いましたが、拍子抜けするほどあっさり終了。ここで行き止まり。
山寺駅にも往復2時間と注意書がありますが、登って下るだけなら50分。奥の院タッチは皆様がよくご存知の修行とは異なり、折り返し同一クルーさらしの刑、折り返し同一シートの刑を免れます。(仙山線の上り列車は、まだ仙台未着。)
二週連続の連休は暦の必然。共に同じぐらいの高低差を登ったのは偶然。比べると、先週のシンガポール最高峰の方が大変でした。
低くても山。もう紅葉が始まっていました。
朝のんびりと山形駅を出発しても、昼前には戻っています。ついでに山形観光でもするしかありません。こんなものや、
こんなものまで見てきました。
てんぷらは余計、蕎麦だけで十分でした。
既視感があったので、何かなと考えてみたところ、hatoさんの最近の Twitter と素材の対象が同じであることに気が付きました。それ以上にニアミスしていることを強調すべきでしょうが、とにかく照合可能なものを挙げておきます。
対象1
hato on Twitter: "蝉が去りコオロギが鳴いている山寺、奥の院への階段を昇る。濃く繁る緑が、光も空気も柔らかく分解して。… "
対象2
対象3
ただし大きな違いもあります。hatoさんは、芭蕉ゆかりの地にふさわしい tweets を連発されています。ご本人は、
hato on Twitter: "地獄桃先生やDRK、男爵の末席に加えていただくだけで恐れ多いものがあります。… "
なんて書いていますが、もはや詩的というべき tweetsを読んでいると、同じものを見てもこの程度しか書けない Pechedenfer を一緒に並べることに無理があることがわかります。
芭蕉の旅を追体験するというより、hatoさんの山形を追体験している気がしてきたので、観光の定石へシフト。hato色払拭を試みます。まずは城。
復元なのか、復興なのか。とにかく頑張っています。天然木が迫力です。
資料不足につき、関係者は写真や図絵の発掘に相当努力されていますが、かなり困難だろうと思います。霞城は三の丸まである巨大な平城だったのですが、その縄張りを確立した最上氏が57万石。その後江戸時代を通じて領主が頻繁に改易、石高はほぼ単調減少し、幕末期はせいぜい6万石。これは城はそのまま、藩政予算が10分の1になったことを意味します。ここからは想像ですが、天主、櫓、城壁、城門、武家屋敷など、ありとあらゆるものが長期間にわたり相当荒廃していたはずで、観光絵図にしようとか、写真をとろうとかいう意識が働かなかったのではないでしょうか。そもそも記録がなされなかったという線が強い気がします。
他の都市と同じく、城の平たい土地は有効活用されています。日本中で県庁舎を建てたり、練兵場になった城が多いのですが、山形でも博物館が作られました。またこんな歴史的な木造建築も移築されています。
郷土館という名で第二の人生を送る元病院、済生館。イザベラ・バードが訪問し、高く評価した建築物というと、上で引用した tweet に登場する DRK の領分です。もっとも某社会福祉法人の病院第一号というわけではないようです。
山形を「まじまじと見る」のは初めてですが、文化遺産への意識が高いことに驚きました。旧県庁。
そこに隣接する旧県議会堂。
明治期、この区画を核として都市計画が策定されたためか、今でも強力な求心力が感じられる地点。庁舎が手狭になった歴史は他所と同じですが、山形の人が非凡なところはスクラップ・アンド・ビルドをせず、この区画を空間として維持したことです。今日、貴重な文化歴史遺産になり、市のアイデンティティを支えています。この地には、欧州都市のような意識があります。
かつての本会議場。面積の割に格安に借りられます。建物が生きている証です。本日はBiennaleの会場の一つ。倉庫のように見えますが、それはイベントのせい。明治大正期の風情にあふれるホールです。
近年あちこちで行われる地方アートフェスティバル。街区を決めて、美術、音楽、工芸、文芸 etc.の催しを行い、都市はさりげなくお祭り。町おこしとしては金もかからないし、発表の場が欲しい人に良い舞台を与えるし、よろしいのではないでしょうか。
放っておいても地方の個性が自然に表現されるでしょうし、全国一律に同じような箱物をこしらえるより、はるかに有意義な税金の使い方だと思います。
県庁舎中庭も会場になっています。午後の日差しが、東北の秋を感じさせます。この光は西日本にはありません。
光が違うのですから、そこで生まれるアートが違うのは当然。各地で催行される点は同じでも、アートフェスティバルは花火大会より意味がありそうです。
最後にこの建物に収納、展示されている逸品を紹介します。江戸期は京都、大坂で高く評価され、地域経済に多大な貢献をした紅花染め。
光のマジック?ここまで見事な紅色は、初めて見ました。