夏の思い出
夏の旅行。伊丹空港の大規模改修工事が終了し、新装開港した頃です。記事向けに写真は撮っていたし、頭の中でネタは整理していたのですが、書くのをさぼっていました。
目的地は福知山。地名はよく聞きますが、初の訪問です。明智光秀が NHK ドラマで取り上げられた年。この頃あちこちで福知山と亀岡の宣伝を見かけました。
福知山は伊丹空港から長距離バスでアクセスできます。
伊丹は改修後、北ターミナル到着口前のタクシーロータリーがレンタカー業者のモータープールとなりました。そしてさらに前方にあるバス乗場は、長距離バス路線専用になりました。変わらず蛍池駅へ向かう歩道と一体化しています。
福知山は 85分のバス移動。楽そうです。しかし予約制。思い立った時に乗車できるほど甘くありません。
長距離バス客用の待合室は、空港大改修に伴って新設されました。
世はパンデミック。新調、新設したのに全く機能しないサービスが多く、気分が沈みます。
待合室内部の様子です。この頃、長距離バスの運行はほとんどすべて中止されていました。この日もバスを待つ人はいません。
伊丹空港 → 福知山城
結局、蛍池から宝塚まで阪急、宝塚から福知山まで JR 福知山線を利用しました。
宝塚から先に向かったのは初めて。三田の地形とか雰囲気が、その先の丹波のものにそっくりだったことが印象に残りました。
谷川駅では、加古川線から乗り継ぐ行楽客が大勢乗車してきました。それまで福知山線(宝塚、三田 etc. )で乗って来た客も多くは行楽客でしたが、雰囲気が全然違います。あっちは播磨ですから、不思議ありません。
そこそこ時間は費やしましたが、退屈せずに到着。阪神の集積地、播磨の集積地、京の都からの三路線が集結し、山陰地方への動脈に連結する要所。思ったより立派な駅でしたが、考えてみればそれなりの理由は見つかります。
何も旅の予習をしておらず、とりあえず城を目指します。駅から路線バスもあります。しかし良い天気なので歩きます。
城は駅から 2 kmも離れていません。すぐに天守が見えてきます。日本中で城の周囲の土地を行政が保有しているのは歴史の必然。その結果、景観への配慮が今でも比較的容易。
天守が街を見下ろしていると、郷土愛に良い影響を与えそうです。悪い殿さまの所業なんて、多くは忘れられていますから。
城のある都市の出身者には、その城が美しいと最初に褒めておくと友達になれそうです。この風景、さりげないけれど、なかなかのものです。
クローズアップ福知山城
小高い丘の上に天守はありますが、城の規模に対して石垣の高さが特徴的。
よく観察すると奇妙に石が不ぞろいです。集めてきた石を自由に使っている感じです。
この石垣では、何をやったか明らか。他の目的のために加工された石をそのまま利用しています。石灯篭か石柱の足の部分に見えます。
全く予備知識なく訪問したので、このリサイクル精神に驚きました。全くユニークな城です。
しかしリサイクルではなく、徴収、没収という線も捨てきれません。一応この奇妙な石垣についての説明がありました。いずれにせよ明智光秀は見てくれを気にせず、実質本位な殿様だったのでしょう。
本能寺(注)滞在中の織田信長を急襲、クーデターに成功したものの、数日後に豊臣秀吉に討たれた明智光秀。信長と秀吉はいろいろな創作の中心になり、そこでは明智光秀はもちろん逆賊。そのため彼は、日本史上有数の悪役に見えます。しかしこのイメージと、彼の治政は全く関係ありません。もしかすると土地の人にとっては、領主としての姿の方が身近かもしれません。
注:本能寺はその当時、六角通―錦小路、油小路―西洞院あたりを寺地としており、今でも元本能寺町の地名に名を残します。近くにある本能公園は、本能のまま振る舞うことが許可される公園ではありません !!
城からの眺め。風景から橋を消去すると、明智光秀が見たものとあまり変わらないと思います。
福知山城は、阪神、播磨からも人が集まる京都府内の行楽スポット。このことは福知山線に乗車していて気づきました。すると現地で優勢な言語は何であるか、楽しみになります。
私が耳にできた優勢言語は何だったと思いますか?答えは京都語でした。京都からの観光客が大声でしゃべる傾向にあるようで、耳にするのは圧倒的に京の言葉。声が小さくなる大阪勢を圧倒する大声の京都人たち。理解困難な世界が現出していました。京都府内は俺たちの島ということなのでしょう。
そんな天変地異も、JAL が私に電話をかけてきたため消散します。JAL ですよ。標準語で対応せざるえないではありませんか。不粋ですが、仕方ありません、通話終了して周囲を見回すと人が消えていました。こんな場所にいる関東勢は稀なため、東京言葉への忌避感が強くなります。遠ざかるという反応はとても自然。
せっかくだからお城の勉強もします。山城(奈良の都から見て山の裏側ではなく、山の上に築いた城の意味)では飲み水を得るのが大変。こんなことが常識として身につきます。
包囲戦-籠城を考えると、軍事的に極めて重要な点です。
駅からのアプローチとは反対側の平地に降りてみました。城が威厳ある姿で現れます。地元の人から大切にされていそうです。
景観は多くの人の価値の一致がないと実現しません。
北前船交易、国割り、維新、軍港、興業の爪跡
福知山は下調べをしていなかったので、城だけで帰ります。復路は山陰線で京都周りにしました。こんな電車に乗ります。
なじみのある地名から構成されながら、見慣れない発車案内というのは新鮮です。京都への直通列車は少なく、園部で乗り継ぎます。
福知山からは、東舞鶴へも直通列車があります。舞鶴も観光地で、長年行ってみたいと思いつつ実現していません。
すぐにルーティングを考える性向は、皆さんなら理解できると思います。伊丹空港までは JAL で運んでもらって OK としても、伊丹から舞鶴へは福知山線か、京都からの山陰線かで微妙な選択になります。すぐ後に書きますが、これらの路線は大阪と京都の歴史的な競争を背負っており、その名残りは今でも感じられます。
ごちゃごちゃした過去が鬱陶しくなったら、北回り(伊丹空港から新千歳、小樽築港経由)で東舞鶴へ至る経路も悪くありません。しかしこれは愛好家向けですね。最近公開された旅行記(ただし逆回り)は、この経路の魅力と実態を伝えます。
2021年10月 フェリーで行く京都と小樽 - kakifly100mのブログ
山陰線に乗ると、駅を出てすぐに車窓から城が大きく見えます。
舞鶴方面と京都方面との分岐点になる綾部には10分ほどで到着。
この先の園部までの鉄路は、京都実業界の歴史的な黒星を思い起こさせます。その原因となった敷設工事の遅延区間です。
1895年のことです。舞鶴への鉄道敷設を阪鶴鉄道と競り合った末、京都鉄道は仮免許を勝ちとります。これらの二つの鉄道会社はそれぞれ大阪と舞鶴、京都と舞鶴を結ぶために、地元の投資家、実業家が設立したのですから、二都の競争と言っても過言ではありません。京都は大阪を制したはずでした。
ところが京都鉄道は保津峡に線路を通した後、園部-綾部間の工事が遅々として進みません。その頃の極東ではロシアの脅威が大きくなる一方、1901年に舞鶴鎮守府が開庁。しびれを切らせた国は1902年に京都鉄道の免許を取り消し、尼崎からの鉄道が完成済みだった阪鶴鉄道福知山駅から、現在の東舞鶴駅までの線路を直轄事業で建設します。完成後は阪鶴鉄道が大阪―舞鶴全線を運行することになりました。まさに現在の福知山線経由のルートが先に開通。1904年、日露開戦の数か月後の事です。
園部以北は資金不足で工事ができなかったそうですが、通ってみると地形も面倒くさそうでした。
ただ保津峡に鉄道を敷設できたぐらいだから、技術的な問題は無かったはずです。
因縁の路線も今日では平凡に運行され、直通の特急列車で京都―東舞鶴間は 1時間40分ほど。普通に乗車する分には、京都人の苦い歴史を思い出すことはありません。
個人の日常ではそんな歴史はどうでもよく、この日も京都駅を避けるため、保津峡を通過後すぐの嵯峨嵐山で下車。嵐電、阪急を使って大阪に戻りました。都市を分断するあの巨大駅は、いろいろな意味で苦手です。