バス代わりの飛行機

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2022年のベルリンは?

 

無駄話から

手元の独和辞典で調べると、Einheit は「統一, まとまり, 一致」、Einigung は「統一, 統合」が第一義の女性名詞です。「ドイツの」という形容詞にこれらの名詞の前に置くと前者は「ドイツの統一」、後者は「ドイツの統一, ドイツの統合」になるはずです。意味は区別できません。しかしこれら2つは全く異なり、

です。Google が予測しやすい形にしています。前者は20世紀の東西ドイツ統一であり、主に暦の記念日で使われます。後者は19世紀に起きたゲルマン諸国の統合(によるドイツ帝国の成立)を表します。

 こんなものは個々の単語について知っていないと区別できません。

 

独語の難しい点の一つは、単語が非常に多く、上の例のように習慣的に区別されているケースも非常に多いことです。ただこれは漢字を使う日本語や中国語でも同じなので、実は我々には克服しやすい困難なのかもしれません。

 

前置き

今年2022年は東京では鉄道150年ですが、ベルリンもお祝いネタがいくつかあります。シャンパンを開ける口実が多ければ多いほど良いのは、いずこも同じ。もっともドイツは祝杯を自給自足するようになっており、公的な祝賀会ではシャンパンは好まれません。ベルリンに限らずゼクトが出てきます。

 

地下鉄開通120年

有名な技術者のジーメンス電気機関車を実用化、電気式エレベーターやトロリーバスを発明、electrical conductance の単位(注1)になり、巨大電機メーカーを創業したなどととんでもない活躍ぶり)によるアイデアは、1880年までさかのぼります。重電のシーメンスには商売に好都合、BVG には箔付けになる歴史。開業は1902年 2月 5日。Stralauer Tor(注2)と Potsdamer Platz 間に現在の U1 に当たる路線が開通しました。ドイツ初の地下鉄でした。

注1:逆数である electrical resistance の単位はバイエルンの物理学者オームの名が付きました。彼らの性格を偲んで後世の人がそれぞれの名を当てたのでしょうか。

注2:1924年に Osthafen に駅名変更、1945年の爆撃により破壊され再建されず。現在の Warschauer Straße 駅近く。

 

ベルリンフィル創立140年

1882年と記録されますが、月日に係わる情報は得られませんでした。 54人のメンバーをもとに、職業作曲者-指揮者の Johann Ernst Benjamin Bilse が創始したとされます。その時に指揮者に担ぎ出されたのは、Ludwig von Brenner。その後の芸術監督は、ご存じの通り有名人ばかりです。後世に名が残るぐらいの音楽家だからこそ、ベルリンフィルの芸術監督になったのか、ベルリンフィルの芸術監督になったから名が残っているのかよく分かりません。

 1922-1945 と 1952-1954 に芸術監督だった(注3) Wilhelm Furtwängler の生誕地は、ベルリンの Nollendorfplatz。地下鉄の駅名でもあるのでご存じの方が多いと思います。地下鉄が広場を貫いています。高架部分なので目立ちます。地下鉄開通以前、この広場は路面電車の結節点であったはずです。今も昔もそこそこ騒々しい場所。

注3:7年間のブランクは何を意味するかお分かりですね。同種のことが2022年にも起きています。

 

なお現在の芸術監督は、髭・鬚・髯が印象的な Kirill Petrenko。

Kirill Petrenko Porträt | Berliner Philharmoniker

 

州立歌劇場280年

Staatsoper unter den Linden。これは建物の歴史であり、楽団・劇団のことではありません。1742年12月 7日こけら落とし。演目はグラウンのクレオパトラとシーザーでした。当時は宮廷歌劇場です。

 2010年からこの建築は修繕・改築の大工事に入ったため、しばらく州立歌劇は Deutsche Oper Berlin に近いシラー劇場で公演を行っていました。この工事はとりわけ長く感じられたものの、7年で完工。2017年10月 3日にフンパーディンクの代表作ヘンゼルとグレーテルで再オープンしました。

 今はなくなった「州立歌劇場@シラー劇場」の写真を貼っておきます。客層は変わらないので、ドレスコードの参考に。

実は、ほとんどの客は大したものを着ていません。

 

三皇帝会談150周年

オーストリア・ハンガリー帝国皇帝のフランツヨーゼフ 2世、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム 1世、ロシア皇帝アレクサンドル 2世が1872年 9月 6日から 9月11日にかけてベルリンで顔を合わせ。ヨーロッパにおける利害調整について話をしたようです。主なポイントはフランス共和国バルカン半島の扱い。

 もちろんその裏で行われた宰相同士の会談が実質的な機能を果たしたと思われます。

 

歴史的にも二国の王が会うことは、全く珍しくありません。しかし三国の王が同時に会うのはあまり普通ではありません。外交のプロトコルを考えても、二者会談とは異なる問題が多数生じるはずです。この頃のヨーロッパは強い王国が周辺の王国、公国などを飲み込み、帝国への遷移が進んでいました。君主はタイトルが王から皇帝へ変わり、それまで以上にえらそうにすることが求められた時代です。この会談の話題性は抜群だったはずで、ベルリン栄光の時代と言っても良いかもしれません。

 惜しむべきはこの会談では、合意が得られなかったことです。

 

なお三皇帝というと、パリのカフェ・アングレ(La Tour d'Argent の前身)における 1867 年 6月 7日の晩餐が有名です。しかし集まったのは当時の皇帝 1(上記アレクサンドル 2世)、後年の皇帝 2(上記のヴィルヘルム 1世、アレクサンドル 2世の息子アレクサンドル 3世)でした。したがってこれは三皇帝の会談ではありません。

 なおこの晩餐は 16皿からなり、8時間かかりました。(注4)おそらく晩餐の終盤だったと思いますが、夜中の 1時にアレクサンドル 2世がフォアグラを所望したところ、当時のフランス美食界では 6月はフォアグラを食べない月(注5)だったので用意できません。そのため、この晩餐のシェフだった Adolph Dugléré が10月になってロシアにフォアグラのテリーヌを送った(注6)というエピソードが残っています。

En 1867, le dîner des trois empereurs au Café anglais

注4:前時代のフランス料理。皇帝を勤めるのも楽ではありません。なお直前のリンクにはこの夕べのメニューが掲載されています。

注5:食品の保管技術が今とは比較できません。この頃のフォアグラは、夏は傷みやすかったのかもしれません。そんなことより、これは都会が田舎者を見る視線です。

注6:La Tour d'Argent の有名な皿、三皇帝のフォアグラはこのエピソードと関係づけられます。